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テキスト

若宮綾子−まなざしのピルエット

ジグマール・ポルケの娘たち、と呼ばれるアーティストたちがいる。彼女たちは画布と衣服の境界、そして衣服と身体の境界をも取りさり、平たさと立ち上がりの差異を解消する。

シフォンジョーゼットによって包まれた若宮綾子の作品の表面は、放射する光の加減でその表情を変えることによって絵画的である。その反面、光を受けとる作品はたしかな厚みをもっており、それがたんなる“仮想的な”平面を志向するのではなく、物体的であることによって彫刻的でもある。  この二通りに解釈可能な作品は、額縁と台座(さらには軸)に支えられることによって二通りに解釈されるのではない。また、一方は壁に掛けられることによって、他方は床に置かれることによって、絵画的あるいは彫刻的であるのでもない。もとより若宮の作品に二種の作品の系列があるのではない。ひとつの作品が、二通りの様相を帯びて、二通りに見られうるのである。

絵画的であるとは、この世に存在しないイデアとしての平面上の形象と色彩を追究することではなく、織られた布がその物体性を極限まで希薄化し、透明化し、そこに放射される光とそこを包囲する光を同時に受け止めることによって発症する儚い幻影のことである。このことを若宮の作品は誠実に語り出す。  
また、彫刻的であるとは、マッシブな量塊や確固とした重さを彫り出すことではなく、物的な大きさや重さを極限まで抑制した最少の存在が、カタチはいかにして把握されうるのか、あるいはイロはいかにして把握されうるのか、という視覚的問題を四方八方に放散することである。このことはカタチもイロもけっして確定されることなく、見るひとによっても、見られる時間によっても、介在する光の質によっても、変化しうるものであることを示している。

もし若宮が用いる石膏と石鹸の表面を第一の皮膚ととらえるならば、シフォンジョーゼットの表皮は第二の皮膚である。彫刻が物体の骨肉と一体となった皮膚、すなわち素肌を見せるものとするならば、絵画は物体を第二の皮膚として見せるものであろう。第二の皮膚が視覚的には不可知な第一の皮膚の質感を超え出たとき、私たちは物体そのものよりも、その仮象を愛でることになる。こうして世界は像となる。  

そのオブジェクトとしての作品はたしかに静止しており、そのカタチは確定的であるはずである。しかし、その輪郭線はいつまでも未確定的なまま見るもののまなざしを通過していくにすぎない。若宮の作品における遁走し続ける輪郭と色相は、視覚的現象それ自体がつねに遁走的なものである事態をも私たちに突きつけている。  

こうしてみると、ヒラリとそよぐかのような一見フェミニンな素材を用いた若宮の作品は、ソリッドで家政的な素材による作品とともに、その実、〈肉体のロゴス〉という高次なフェミニニテを芸術アポリアのソリューションに用いたジグマールの父、その同僚たち、そして娘たちと同じく、視覚芸術の根幹にかかわる問題を突いていることがわかってくる。  

「落ち感」や「ドレープ性」などかつて画家や彫刻家が苦心惨憺した表面の様態は、そっくりそのままミクロなレベルの表面として、若宮の作品に継承されている。その繊細な質感を表皮とする若宮の作品は、絵画において絵具と観者の間に醸成される遠近や彫刻において物体と観者の間に存在する距離を、作品の表面でつねに生起しては消滅する極めてミクロでミニマルな凹凸へと還元している。この表皮という抜け殻の母胎が石鹸(生活)であろうが、石膏(芸術)であろうが、はたまた若宮の作品とは無縁の鉄であろうが、その物理的組成は私たちの視覚には不可知である。  表面は平面ではない、ゆえに深奥は生じる、という事実を若宮の作品はいっときも休むことなく、私たちのまなざしに突きつけ続けている。

山本和弘(栃木県立美術館、学芸員)